議論の目的とは何か

『「話し合って決める」という幻想 - Chikirinの日記』を読んで,私の感じたこと,考えたことをここに開示する。元記事のブコメ欄は開示されていないから。

 

細切れの感想

  • 「蓄積性の低い Twitter が議論に向いていない」点は同意。
  • 「過去の発言がどんどん流れていってしまう」のは,口頭の議論でも同じ。
  • 相手のことを知りたいのなら,訊けば良いのに。『他者の意見を聞くのは大好き』でも,質問するのは嫌いなのか?ホントは, 『他者の意見』に興味なんか無いのだろう。
  • 議論と説得は別物。
  • 議論と決定も別物。
  • ちきりん氏は,「議論の帰結は意見の放棄」と考えているわけだ。「議論は多様性を殺す」と。
  • ちきりん氏は,「議論は非効率で時間の無駄。議論など省いていきなり多数決で決定だけ下した方が効率的」と考えているのではないか。

議論の目的とは何か

 以下は,自分の考え。

  • 議論とは,相手の思考を理解し,自己の思考を深めるために行うもの。 
  • 議論をしたからといって,自分の意見を変える必要は無いし,相手の意見を変える必要も無い。
  • だからこそ,決定のためには議論とは別の方法が必要になる。多数決とかね。
  • 相手の意見を理解していなければ,決定しても実行ができないよ。共同作業が上手くできないでしょ。他者の協力が必要なければ,議論しないで自分が実行すれば良い。
  • 相手の意見を変えさせる目的ならば,議論ではない。説得とか交渉とか呼ぶべき行為。主張するだけならば,宣伝とかプロパガンダ。
  • 相手の意見に興味があるなら議論したくなるはず。質問を重ねることで,意見の下地となる事柄や,その意見にいたるまでの理路が明確になり,理解が深まるから。
  • 質問を重ねるには,ネットの双方向性と即時性は有益なはず。
  • 相手の意見がウソやデタラメならば,議論することで明確になる。議論を避ける時点で怪しい。
  • 自分の意見を広めたい人ならば,議論を避けるはずが無い。議論することで,誤解されたり理解されていなかったりするところが明確になる。その情報は,意見を広めるために役立つはず。
  • 文章は,相手の思考を理解するのに便利。何度も読み返せるから。

最後に

ちきりん氏がネットでやっているのは自己宣伝。本音かどうかも怪しい。この記事 『「話し合って決める」という幻想 - Chikirinの日記』も,釣りじゃね?

 

橋下市長は法律家

橋下市長「法律家として危ないなと感じていた」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

この報道に対して,「法律家www」との声も多い。しかし「橋下氏の考え方は,彼が法律家であることに基づいている」と考えると理解できる。

1.ウソはつかない

 はぐらかすけど。案外,「独裁者として権力を揮いたい」という欲望を隠さず表明している。はぐらかすのは,他人から問い質されたとき。「偽証はしないが黙秘はする」という法律家としてのモラルの表れではないか。

2.ゼロサム主義者

 それも強烈な。自分が勝つには,誰かが負ける必要があると信じている。正に,法廷における法律家の思考。

 自分が得するには,誰かが損しなくてはいけない。自分が豊かになるには,誰かが貧しくならなくてはいけない。自分が利口になるには,誰かが馬鹿にならなくてはいけない。彼の言う「競争とは,そういうことである。

 教育では,全員の能力を底上げするという発想はない。経済発展でも,Win-Win の関係は幻想と思っている。日本が経済発展するためには,途上国は貧しいままでいてくれないといけない。大阪都構想も,「東京が発展しているから大阪が発展しない」との発想に基づいている。

3.権力志向の起源

 「法律家としての考え方」に,「橋下氏の生い立ち」が結びついたことで権力への渇望が生まれた。他人から差別されたり踏みつけにされたりすることが嫌ならば,他人を差別し踏みつけにすることだ。

 現実には権力の階梯を昇るほどに,社会からの批判が強まる。橋下氏は,『財政再建プログラム試案』を市町村長に説明する席で涙を浮かべた。自分の権力が強くなったはずなのに叩かれてしまう情況は,彼にとって出口のない地獄なのではないか。

橋下氏の世界

橋下氏に,世界はこう見えている。

  • 社会とは政治家が闘う場。法律家にとっての法廷と同じ。
  • 味方でなければ敵。勝たなければ負け。
  • 有権者は陪審員。啓蒙するな。言い包めろ。
  • マスコミその他は傍聴人。ヤジを飛ばすな,黙ってろ。
  • その場で言い負かせば勝ち。後の責任は負うのはオレじゃない。

これからの橋下氏

 橋下氏自身は,自分の考え方が法律家としての考え方に捕らわれていると気付いていないだろう。同じ考え方が政治の世界でも通用すると信じて疑っていない。自分は成功していると思っている商売人と同じように。どこかで政治家としての考え方学んで欲しいものだが,本人はその必要を感じることはない。政治家 橋下氏にとって,社会とは法廷であり闘う場所。学ぶ場所ではないから。

 だからこそ,自分の考え方の制約に気付けば豹変する可能性はある。誰かが橋下氏に,「『政治家の手法』を法廷に持ち込んでもうまくいかないように,『法律家の手方を政治に持ち込んでもうまくいかない」と,納得させられると良いのだが。

橋下人気に感じる違和感

橋下人気に違和感を感じる。明瞭に言うなら,橋下を持ち上げている連中が気味悪い。「違和感」と言われただけではピンとこないような,ちょっとニブイ人達のことだ。

口を出す資格とは

政策に注文を付ける資格があるのは大阪市民だけである。橋下氏は,大阪市民が望む政策をとるべきだ。なので大阪市民以外は政策の良否を評価することに止め,政策を押し付けるのは控えるべき。それ以上は僭越だと考える。

専門家でないものは口を出すな

しかし,橋下支持者はそうは思わない。「専門家でないものは口を出すな」と言う。これは的外れである。大阪市民以外は口を出すなと言うべきだ。
ところで,橋下支持者達は行政の専門家集団なのだろうか。いや,たぶんエア専門家。自分達のことを棚に上げて,橋下支持者達にとって都合の悪い人を攻撃する。気味が悪い。

代案を出せ

批判するなら代案を出せと要求する者もいる。例え話をしよう。「美味い儲け話を聞いた」と喜んでいる人がいたとする。彼の友人が心配をして,「騙されているんじゃないの?」と忠告した。すると,「ならば別の儲け話を持って来い」と返された。気味が悪い。上手い例え話ではないが,「橋下批判者に代案を求める連中」に感じる気味の悪さは同質だ。

他所の住民に代案を提供する義理は無い。代案を求めるのは甘え。橋下支持者に他人任せの甘ったれがいる不思議。このあたりにも,橋下人気の異常さを感じる。

口を出す理由とは

具体的な政策について論じないのは,大阪市民でないならば当然である。それでも専門家でもない他所者が橋下市政について口を出すのは,大阪市民が橋下氏に騙されているのではないかと心配するからだ。心配は理屈ではなく感情だ。論理的な批判ではないとの批判こそ論理的ではない。

私がブログを書かないのは何故か

それは,「他の人に押し付けたい思想」が無いから。キリッ

と思っていたがウソである。 書いたとおりに他人を動かせるなら書いていからだ。 自己欺瞞に気付いたきっかけは,『はてな - 人気エントリ』に載った記事『毎日やるとよさそうなこと』だ。この記事を読んで,「ブログでも始めてみようか」と思い付いた。そして,「なぜ,今まで書こうと思わなかったのか」 考えた。 

人は何故ブログを書くのか。下手な推測を重ねずとも,今はグーグル先生が答えてくれる。「ブログ 書く 理由」 とか「なぜ ブログ 書くのか」とかの単語の組み合わせで検索してやればよい。大勢の意見がすぐ見れる。「自己研鑽」系の優等生的な意見と,「ビジネス」系の金銭的欲望を満たすためとの意見が多いようだ。だが,他の人の書いたブログを読んできた自分の意見は別である。人がブログを書く目的は,「他人を自分の思い通りに動かすため」だ。

ブロガー達は皆,自己主張が強い。それを他人に押し付ける。人の意見を聴く気は無い。ブログ記事にコメントする読者もそうだ。自分の意見を曲げる気は無い。ブログ上で有益な議論が成立しないのは,そのためだ。

そんな中で影響力のあるブログは,他と異なっている。つまり異常である。内容であったり筆者のキャラであったり,何かしら尖ったところがある。良い方向,優れた方向とは限らないが。自分には,それが無い。

いや,正確に言えば耳目を引くような,面白い異常さが無い。注目を集められなければ他人に影響を及ぼす術が無い。 ブログを書いても無駄である。自分の無力さを思い知るのがイヤで,ブログを書いていなかったわけだ。でも,そんなこと気にしなくて良いよね。

 他の人の書いているブログを読むと,その内容は様々である。一つの記事の中でさえ,テーマが統一されていないものすらある。ブログを書く理由も様々なのだろう。このブログを始めるにあたって,目的を次のように定める。

  • できないことを出来るように(自己研鑽)
  • カネ儲け(ビジネス)
  • 耳目を引く(反響を得る)

の,ありがちな三つは,記事にはしても目的とはしない。これらとは別の『ブログを書く意義を見つける』ことを目指してみたい。